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ジャーナリストを撃たないで!
08:2507/05/2008
 

マクシム・クランス、ロシア・ノーボスチ通信社、政治解説員。

 

World Public Opinion が行なった発表されたばかりの国際調査は、地球の住民の大部分は報道の自由を賛同していることを証明している。我々ロシアでも、明らかになったところによると、賛同者はやはり多い。しかし、驚くべきことがある。アンケートに参加した20ヶ国の住民のうち報道の自由に反対する人が一番多かったのはロシアであったことである。この点で我々と同じ状態になっているのはイランだけだ。客観性から述べると、これはロシアだけの傾向ではない。マスコミの「無禁止無制約状態(何でもやりたい放題のことができる状態)」の制限する方向での気分の動きは、ロシアだけの特徴ではない。例えば、イスラム国家でもその傾向はある。

 

5月3日に記念される報道の自由の世界の日に合わせて世論調査が、最も様々な社会政治方向を持つ国で行われた。しかし、質問に対するロシアの回答者が出した回答は、ロシアでは、この件に関して特別な観点があることを示している。例えば、ロシア人の44%は、政権は、マスコミをコントロールし、まさにこの政権の判断で、国民の頭脳に不安定化影響を与える可能性のある資料は公表を許可しない権利を持つと考えている。同時に回答者の69%は、ロシアには言論の自由はあり、6人に1人はこの自由はすでにあまりに多すぎると考えている。

 

逆説的状況がある。3分の2のロシア人は、社会が民主主義的方向で発展することに二つ返事で投票するが、その際、国内の発言の自由の状態についてはこれ以上必要なく現在の状態に「深い満足感」を示している。しかし、我々の国民の同じように大部分が、逆に、政権は国民によってコントロールされるべきだとも考えている。しかし、マスコミが最も強力で効果的な政権コントロールの手段でなければ、何が一番効果的な手段なのか?さらに、全ロ世論調査センター(ロシア語表記ВЦИОМ)の社会学者が2年前に行なった調査の過程では、63%のロシア市民が、国家検閲を導入することに賛成していた。その後はこの種の調査は行なわれていない。

 

これらの人の中で、多分、組織改革された「アガニョーク(灯火)」と「モスコフスキエ・ノーヴォスチ(モスクワ・ニュース)」を穴があくまで読み、政治逸話で皮肉っても現在は刑務所や精神病院に入れられないことを喜んでいた人は多いだろう。これは、考えていることをやっと言うことができるようになった二重思想と共産主義の紋切り思想から脱却した時代だった。時代は、理想を求める時期だったにせよ何か大きく期待できる時代でもあった。マスコミをあまり評価していなかったエリツィンですら、マスコミの自由を侵害することを思い切ってはしなかった。

 

その後は、しかし、従来状態に戻るようになった。現在、ロシアのマスコミには、異なる思想のための掲載スペースはほんの希な島に残っただけで、実質的にどこでも、新聞、通信ラジオ局所有者の検閲及び自社内検閲が支配している。そして、出版社の大部分はもし最後まで多元論と決別しなければ、どのような場合でも、録音される思想や意見の振幅は極端に制限された。

 

従い、報道の自由の世界の日の前夜に伝統的に発表される非政府組織Freedom House の通年報告では、ロシアでは、最近の1年に、発言の自由の「大幅な削減」が起こっていることが確認されている。この係数ではロシアは世界で170番目に落ちた。我々と近いのは多くの旧ソ連国があるが慰めにならない。

 

Revada-センターのデータでは、ロシア人の56%は、ロシア政権は全く発言の自由を脅したり、独立系マスコミ組織の活動を制限したりしていないと確信している。

 

実際は残念ながら異なる。法律擁護組織と、特に、公開制保護基金により行われるモニタリングが示すところによると、法廷追求、罰金、掲載不許可を受ける都合の悪いマスコミ組織が年を追って増えている。解雇、殴打、逮捕に処せられるマスコミ職員のリストも増大している。ロシアは、最近の10年間で自分の職業活動を遂行する過程で殺害されたジャーナリストの数は世界で2番目を占める。

 

なぜこのようなことがあり得るのだろうか?主には、報道の自由が現在、社会からの需要がそれほど多くなく、少なくとも社会から守られていないから、なのだろう。それに、そもそも報道の自由とはどのように理解すべきなのだろうか?自分の思想を公然と表現する可能性、あるいは、他人の個人生活への無礼な介入と理解すべきなのだろうか?社会にとって先鋭的で病的な、あるいは、文字通りセンセーショナルな問題を取り上げることを意味するのだろうか?役人根性、政権の十分に熟慮されていない決定を批判することと理解するのだろうか?あるいはGrey Propaganda(情報源が定かでない情報)の流し合い合戦を意味するのだろうか?アンケートが示すところによれば、近代のマスコミと何かを認知するのは、マスコミの自由を国民がどのように感ずるかと同様に、複雑多様で矛盾に満ちていると言える。

 

今日、真剣な社会・政治評論は流行になっていない。流行なのは他のテーマ、違うジャンルであり、有名芸能人、血なまぐさい犯罪、「ゴシップ」、ポピュラー、俗人相手のトークショーそして「ベルトより下」のユーモア(セックス・ユーモア)である。このようなテーマは、俗人からの積極的な需要があるかも知れないが、このような放送や記事の著者への尊敬も信頼も高めない。マスコミは、彼らにレーティングや利益を保証してくれるテーマに向かう。そして同時に、テーマを形成し、読者や視聴者を、楽しいかあるいは恐ろしくヴァーチャルな世界に引き寄せ、まさにそのことにより、自国の運命を決定の実際の参加から離している。