ロシア人に民主主義は必要か?
15:0013/12/2007

マクシム・クランス、ノーボスチ通信社政治解説員。

 

国際人権デーと憲法記念日の直前にロシアの調査機関レヴァダ・センター(Levada-Center)が公表した研究は、最近の1年間、ロシア人の目前で前例のない人権軽視が起こっていることを示している。一体どういうことなのか?ロシアの人権の状況は、改善されたのか、あるいは、人々は人権を獲得することなどすでに期待していないのだろうか?そして、もしかしたら、理由は、人々は従来の理想に幻滅し、自分の希望が適わないことを意識したことに見出す必要があるのかも知れないのか?

ロシアの憲法に規定されている人権の幾つかは現在我々国民にとって全く必要ないことが判った。例を挙げよう。自分個人のために言論の自由が重要であると考えている信仰の自由は11%、政権機関に自分の代表を選出する権利は10%である。

尤も、物質的な保証は、市民的や政治的保証と違って、これらの価値もやはり落ちたがそれでもロシア人にとっては重要な役割を演じている。例えば、調査対象者の67%は優先的権利として、無償教育と医療サービス、老後や病気の際の保障を、51%の人は賃金の高い労働を、25%は国家による「最低生活」保障を挙げている。

これらの数字は何を意味するのだろうか?もしかしたら、最近、多くの人は、金銭的な問題と、明日への不確信、そして明確な目的とはっきりとした方向性の欠如から来るストレス状態の中で常に生活している。人々は新しい現実に順応することが出来ず、それ故に、平穏と秩序を選ぶ。たとえそれらが自由を犠牲にしてもたらされるものであろうと、だ。これは最近の全ロ世論調査センター(ロシア語表記ВЦИОМ)でも確認されており、64%の市民は、ロシアに必要なのは、経済や政治生活においての速い大掛かりな変化ではなく、安定であるとし、66%は国内の状況は正しい方向で発展しており、然るべき秩序もそのなかにあると回答している。3年前はこのような見解を示していたのは回答者50%だった。

どうやら、満杯の胃袋の方が思想の自由より重要であるということだろう。そして、寓話作家クルイロフが質問した「一体誰が胃袋に何もない時に歌を歌いたくなるだろうか?」という設問は当然だ。従い、人々は自分の市民権や政治上の権利を惜しみなく譲り、大統領や政府、地方自治体に任せている。そして、どのように自分が生活するか、どのように考えるか、どのように行動するか決定するのは、今後、上部機関に委ねている。

スペインの新聞EL Paisは、先日、この点について、「市民の大部分は、自分のところにはかつて1度も存在しなかった民主主義の権利に想いこがれることはない。彼らは、その頂点に優秀な人物、例えば、もちろんウラジミール・プーチンのような人物が君臨する強い国家を連想し、より良い生活を求めているだけだ」と指摘している。そしてドイツの首相アンゲラ・メルケルは、最近の下院選の結果をコメントし、「ロシアはかつて1度も民主主義国家であったことはなく、そして今もそうではない」と指摘し、スペイン紙と同様の見解を述べている。

そして、どうやら、このような状況に多くのロシア人は満足しているようだ。レヴァダ-センターが行なった別のアンケートの回答者の68%がロシアにとって現在重要なのは「秩序、たとえその秩序を獲得するために、民主主義の原則から若干外れ個人の自由を制限するものであろうと秩序の獲得の方が重要だ」と答えている。

ジョージ・オーウェルのディストピア小説「1984」(極端な管理社会で、基本的な人権を抑圧するという社会)の中で、主人公の1人は、「人類はいつも自由か幸福感かの選択の前に立っており、大部分の場合、幸福感を選択する」と記述している。ロシアの場合は、今日、幸福と同義語に当たる「安定と秩序のために」というはっきりとした命題が選択される。なぜなら、自由も真の民主主義も人々は一度も見たことがなくそれがどのようなものか知らないからだ。自由や民主主義は未踏で未経験の状態の「甘い言葉」として残っているに過ぎない。

現在のロシアの民主主義には、「行政的な遂行が可能」、「コントロールできる」あるいは「主権国家的」といった言い方次第でどのような表現の定義で当て嵌めても良い。しかしどの定義を採ってても、現在のロシアの民主主義は、権利が保護され、すべての(政治的急進主義を除くのは当然だが)グループや市民団の意見が尊重される真の民主主義や市民社会とはほど遠い。憲法の宣言の大部分は現在まで紙の上の文章のままだ。

私は、ジャーナリストとして、言論の自由に関するロシア連邦の憲法第29条がどのように守られるかを、当然、心配している。まだ大昔のアメリカの連邦下院議員ウィリヤム・フルブライト(1905-1995)は、「マスコミは力である。従いマスコミに唯一のグループ(、著者は現在のロシアがマスコミに接近できるのは統一ロシアだけであることを揶揄している)だけが接近できることは、危険な無統制の力になる」と述べた。ロシアでは、現在、まさにこのような状況が起こっている。最近、独立系の通信会社、放送局、新聞社の活動領域が絶え間なく狭まっている。マスコミは「第4番目の権力」、換言すれば、政治システムの対抗勢力の1つになるという期待はすべてとうとう実現しない運命になっている。「自由領土」として残っているのは、インターネットだけである。しかし最近の「ロシアでの人権」というサーバー(HRO.org)が示すところによれば、その将来性すら問題がある。

このような情報文脈の中で、完全に明解なのは、ロシア人の政治への無関心が増大していることである。社会学者のデータによれば、ロシア人の約3分の2が政治に興味がないとなっている。それ故、多分、人権はロシア人にとって、年々その価値が少なくなる分野になっている。

歴史家のワシーリー・クリュチェフスキーが書いたように、「我々の国家のすべての災難は、困難なロシアの全歴史に亘って我々の中に滲み込んだ卑屈な奴隷根性から端を発している」。我々は、その根性を根絶させるためにあとさらにどれくらい、そして何世代、砂漠をさまよう運命にあるのだろうか?