イーゴリ・ニコラエフ、FBK戦略分析課々長、ロシア・ノーボスチ通信社に特別寄稿。
深まる金融危機は、祖国の企業にとって、彼らの社会的責任の観点から見て、真実社会的責任とは何かが問われる局面を到来させたと言える。ビジネスのうわべだけの社会的責任を見せ掛けるデモンストレーションの時代は「飽食だった2000年代」に終わった。
そもそも、ビジネスの社会責任のテーマは、我々が思うに、意味のない場所から発生したわけではなかった。「ユーコス」事件は、ロシア企業の相応しい積極性を明らかに刺激した。ビジネスの社会責任を作り上げるため外国の経験が学ばれた。集団的社会責任は集団管理の要素として論ぜられた。集団的社会責任の基本についても論争が行われた。集団的責任の規準が設定された。
上述の方向で、多くのセミナー、フォーラム、トレーニングが行われた。しかし、問題はこれに留まることはなかった。何らかの我々の知られたビジネス構造はスポーツを大規模に支持し、誰かを建築記念碑の修復に投資する気にさせ、誰かが外国で芸術品を購入し、当然無条件に自らの意思で、それらを国家などに渡した。これが通常のビジネスの代表者たちが自分の責任をデモンストレーションした姿だ。
小規模の会社は、このようなことに数十万、数百万ドルを消費することはできなかった。彼らの場合は、何らかの芸術展示会の遂行のスポンサーを求めるか、或は最悪の場合は、自分自身の積極的な天然資源活動について地元の新聞で強調するしかなかった。
いや、違う。すべての社会責任は、このような試みのみを行なうものだと結論づけてはならない。企業は、益々多く、「白い」給料を払い、税体系を強化し、生産品と提供サービスの品質向上に努めている。そして、それでも、その社会責任向上の作業においては、外への宣伝に向けてのものが多くあった。
ここで、経済状況が急激に変化した。個々の産業セクター(建設、冶金、貨物、鉄道輸送)での落込みはすでに数10%に達している。
変化したのは、我々の大規模ビジネスでも同じだった。つい先日、このセクターのある代表者の告白は私にとって印象的だった。そのビジネスマンは、現在90年代の状況ではなく、企業の倒産まで考えている者は誰もいないと語っている。蚊解雇するのは何%か30%か50%か?それだけ解雇しよう。支社を閉鎖するのか?閉鎖しよう。生産過剰の古典的危機だ。従って、新しい比率を設定する必要がある。
もちろん、今回の危機が生産過剰であるかどうかについては論議の余地がある。しかし問題はここにあるのではない。そして、これは心配を呼び起こさないわけには行かない。3-4年先のビジネスの影響と見通しを予測することすらしようとしないで、現時点の状況からもっぱら行動し、削減準備、つまり、「やむなく」思い切った手段を採る準備することが問題なのだ。
このような行動は何によって説明できるのか?
次のような説明を提案しよう。実際、「重要なことはビジネスを維持することは偶然ではない」という論議は偶然ではない。
現在、資本は減少した。バーチャル資金は少なくなった。もしビジネスが残るなら、資本はある程度伸びる。ビジネスが維持されるという社会問題は2次的なものだ。例えば、我々の大企業の代表にはこのことを理解しているものがいる。
もちろん、世界市場で急進的に高騰するロシアの輸出資源からの超過利益あったとき、ビジネスは、政府に社会責任を示すことは簡単だった。しかし状況は変化した。そして「対外需要」のための社会責任の代わりに全く異なる関係が現れた。
解雇を宣言した何らかの大企業が外国で何らかの資本を購入するという発表が同時に為された時、予想されたことだが、複数のロシアの企業の本当の社会責任の問題が本当に重要であることを再度確認させることになった。
先日、起こり得る失業の規模の政府の評価が発表された。予想は、形式上は、楽観的と言うことができるようだ。仕事がないものは就労者の10%以下で済むかも知れない。現在これらが意味するすべての数字を見てみよう。現在の400万人の失業者(2008年の9月末時点)にさらに760万人が加えられる。すると合計失業者数は経済的に積極的な市民の15,3%を占めることになり、1160万人が失業者になる。
失業が15,3%、これは膨大に多い数だ。私は、保健社会発展省の楽観を理解できない。(もしここでこの言葉を使うことが相応しいなら)ビジネスはすべてを削減する早急の用意を不適切に示しているという面白い事態が起きる。そして、経済当局はすべてなにもないと見なしている。このような状況の中であまり社会的に責任がない者は誰かを判断したくない。
ビジネスにとって真実の瞬間が来た。今回の金融危機は、社会的責任が試されるまさにその時期になった。