最初の祖国戦争:すべてを思い起こそう
09:5207/09/2007

ユーリー・コビャコフ、

安全保障、国防、法秩序問題研究アカデミー準会員。

ロシア・ノーボスチ通信社に寄稿。

 

 

1812年のナポレオンの武力侵害との戦争は、人々の記憶の中に最初の祖国戦争として、永遠に刻まれている。ロシア全社会が、当時、祖国の自由と独立の防衛のために立った。そしてそれゆえロシアが自分の歴史の中で経験した他の多くの戦争と違って、この戦争は、もう1つの祖国戦争、「大祖国戦争」と同様に、正義の真に国民的な戦争として捉えられた。その勝利の200周年を我々は5年後に迎えることになる。しかし、恐らく、今もはや記念日の準備に取り掛かるべきである。なぜなら、この記念は記憶のなかにあるロシアの司令官たちだけでなく、国の運命に消えた大きな辛い試練を身を以って体験した無名の将校、新兵、義勇兵に対しても、歴史的に正当に評価する大きな機会を与えてくれることになる。

丁度195年前の9月8日、ボロジノ辺の戦いで、2つの偉大な帝国、ロシアとフランス、だけでなく全ヨーロッパの国民の運命が決められていた。「巨人同士の武力衝突」、ナポレオンがこのボロジノ戦いのことを後にこのように語ったが、の夜明けに、両軍合わせて約30万人の兵士がボロジノに結集した。その日の終わりまでには、最大で9万人の兵士が戦の庭に倒れた。数日後、クトゥーゾフ元帥はモスクワを放棄することを余儀なくされたが、彼によって護られたロシア軍は、4ヶ月後にはもう侵略軍からロシアを完全に浄化し、1814年には陥落したパリに進入した。

ボロジノの戦いは、この遠い昔の戦争の転換的な場面であった。60万人のナポレオン軍が、宣戦布告なしで、1812年6月24日に、我がロシアの領土に侵入した。敵の優勢な兵力はロシアの心臓、モスクワに突進して来た。兵数21万人のロシア軍は、その結果退却を余儀なくされた。

祖国防衛に関する非常措置の採択を皇帝アレキサンドルI世に要求する危機状態になった。7月18日、彼は、「ロシアの武装に関する勅令」に署名し自国の全階級の国民に武装を呼び掛けた。

「高潔な貴族階級の諸君!君たちはいつの時代も祖国の救出者だった。最高宗務院とい聖職者階級の諸君!あなたたちは、いつも自分の温かい祈りでロシアの長である私に恵みがあることを呼び掛けてくれた。ロシアの国民へ!勇敢なスラヴ人の勇敢な子孫!君たちは、幾度となく君たちに突進して来るライオンやトラの牙を打ちのめした!全員が結集せよ!心臓に十字架をそして手に兵器を持てば如何なる人間の力も君たちを負かすことはできない!」。

これは、異国の敵に対する全国民的に抵抗するための呼び掛けであった。そして多民族国家ロシアの国民は呼び掛けに応えた。ロシア人だけでなくベロルーシ人、ウクライナ人、タタール人、バシキール人、モルダヴィア人、ウドゥムルト人、カルムイク人、カザフ人、コミ人、その他数十の民族が兵器を手に取った。

目撃者であり歴史家であり戦争参加者のA.I.ミハイロフスキー・ダニリェフスキーの証拠が、ほらここにある。「祖国への愛が燃えなかった都市と村はない。誰もが皆出征する命令を待った。無限なるロシア帝国のすべての民族が、風土、習慣、気候、方言、信仰が異なっても1つの心にまとまり、すべてそれらはお互い同士では、気持で血が繋がっていることを証明した」。恐らく、あの雷雨のような時代のロシアの国民の崇高な愛国心を最もはっきり示した出来事は、1-2ヶ月の間に国民義勇軍が結成されたことだろう。約30万人の義勇兵は正規軍の兵士と将校と共に同じ隊列に参加した。ボロジノの戦いには、モスクワで結成された義勇軍から戦士2万人以上が参加した。モスクワ義勇軍は本当に国民軍であり、そこには自発的に貴族、聖職者、雑階級のインテリ、町人、小市民たちが加わった。しかし、義勇軍の主流はロシアの人口の95%を占める農民であった。

モスクワ県では、3万4867人が義勇軍に参入した。彼らは12の連隊を編成し、パリまで戦闘に出征した。サンクト・ペテルブルグ義勇軍の18の義勇部隊の戦士数は1万5439人を数えた。「あごひげの人達は最も頑強に戦い、最大の勇猛さを見せた」と壊滅されたフランス軍の元帥ロラン・デ・セン・シルは自己の回想録の中でペテルブルグ義勇兵のことをこのように回顧した。グル記厳しい義勇退12の連隊の戦士であった。

勝利はロシアにとって非常に高くついた。戦闘上の犠牲者だけでも35万人に達した。我々はいつも犠牲になった兵士を追悼している。クリスマスの日に、ロシア国境からナポレオン軍を追放したことに関連して、アレクサンドルI世は、「この寺院は多年持つだろう。だから、この寺院の中で、神聖な神の即位の前で、先祖が為した事業(戦争で戦った兵士たちのこと)への愛と事業を見習う精神を持ち、後世の子孫からの感謝の香炉が燃えるように!」という荘厳な言葉で終了する「救済者キリストのためにモスクワに教会を建設する旨の勅令」を出版した。

この大聖堂の「軍人の誉れの回廊」には祖国戦争の150回以上の戦闘で命を落としたり負傷した数千人のロシアの将官と将校の名前が不滅に残されている。その名前が子孫まで届く英雄への永遠の記憶として!しかし、その同じ場所には、これらの戦闘では21万人以上が死んでおり、彼らは「低い階級者」の新兵や義勇兵であり、その名前が現在まで忘れられたままになっていることも記されている。

私の観点では、この歴史的不公平は、修正することが出来、また修正されねばならないと思う。そのための良い方法は、1812年の祖国戦争に参加したすべての老兵を例外なくすべて記憶するために全ロシアのメモリアル・ブック(記憶本)を作成することだ。これらはすべて、モスクワ、サンクト・ペテルブルグ、トヴェリ、ノヴゴロド、スモレンスク、カルーガ、その他数10のロシアの都市で古文書を体系的な探索作業を行なえば、現実的に可能なことだ。これは、この戦争の200周年記念を準備するための作業で極めて重要なことだ。

古文書には、兵士(新兵)そして義勇兵の名前を特定できる1811年と1816年の人口調査にもとづき作成された納税義務者名簿(いわゆる国勢調査台帳)が保存されていた。ロシアのそれぞれの地域や地区には、この高貴な仕事を引き受けてくれる意欲ある有志が必ずいるはずだ。

このような仕事は、例えば、1812年の兵士と義勇軍戦士259人の以前は不明だった名前がすでに特定されているモスクワ州のチェホフ地区で1年以上行なわれている。自治体の支援のもとで、同郷人や戦争ヴェテラン兵の記憶が不滅化され、彼らの生まれた村落が示される「メモリアル小礼拝堂」の建設の問題の解決されている。現在、ここに住んでいる子孫は自分の先祖の栄誉ある仕事について知っておく必要がある。

1912年に、全ロシアは、盛大に祖国戦争勝利の100周年を祝った。これは、国が数年間掛けて準備した本当の全ロシアに及ぶ祝典だった。規模においてかつてない祝典に社会の全階級が参加し、その開催にはロシア帝国や県、地方自治体も心配を共有し配慮した。

現在、1812年の祖国戦争の勝利というロシアの歴史の中で最大級の出来事の200周年の準備と遂行のために連邦特別目的計画の作成は、全ロシア的規模での論議に値する。この計画の推進者には、市民の愛国的教育やこの地域の統一国家政策の作成に評価しきれない程多大なる貢献を果たし、大祖国戦争60周年記念の時も見事に開催を成功させたロシア組織委員会「ポビェダ(勝利)」がなっても良い。

先祖の功績について述べると、我々は、「19世紀と20世紀の祖国戦争での我々国民の偉大なる両方の勝利は同等の価値のある象徴的出来事であり、どちらの出来事でもロシアが国力と軍力を持ち、全国民が統一されており、どのような条件にあってもロシアの名誉と自由と独立を守る決意と能力を持っていることを示した」ことを忘れてはならない。