ヴェラ・ポリトコフスカヤ、ロシア・ノーヴォスチ通信社、解説員。
土曜日、11月15日、ボリショイ劇場は、アレクセイ・ラトマンスキー演出の「ルースキー・シゾーン(ロシアの季節)」とユーリー・ブルラカの「ピフタ(モミ、トドマツ)」の2つの公演切符を販売した。ラトマンスキーは公演後劇場から去りブルラカが劇場長になる。
来年の1月1日からロシアの最初の新しい劇場主任と主任バレエ演出家の職務にはユーリー・ブルラカが就任する。この職務に、彼は、名誉あるこの職務を1年以上務めた全世界に知られたバレエ舞踏振り付け師アレクセイ・ラトマンスキーに代わって就任する。劇場のロビーでは、次の人事異動について囁かれて1年以上が経ち、ラトマンスキーも劇場から去りたい旨公然と述べていた。ラトマンスキーに代わりブルラカが就任することについては、この職務を狙っている候補者は多くいたものの、劇場内ではブルラカが就任することは以前からかなり知られていた。
ボリショイ劇場の舞台裏ではラトマンスキーの行動に不満を持つものは少なくなかったことを認めなければならない。主に囁かれていた内容は、ラタマンスキーは古典バレエを上演することを好まず、近代風の上演を好み、若い芸術家にはすでに認められた劇場のスターと肩を並べて上演に望む可能性を与えていたことだ。劇場のマフィア構造がこの政策によりわずかに揺らぎ、ラトマンスキーの民主主義的活動の熱烈な賛同者も少なからずいたにも拘らず、不満分子の数が増えていた。
ブルラカをボリショイ劇場のバレエ団の芸術指導者及び主任バレエ振り付け師に任命したことは、一方では、戸惑いを呼んだが、他方では、近年不足していたアクセントを広げることになった。複数のデータでは、劇場に劇場正主任として戻る積もりのグリゴロヴィッチと共同して、ブルラカは、バレエ芸術の古典作品を劇場の舞台に戻し、ボリショイの新しい舞台を現代の演出のために残すことを希望している。ボリショイ劇場指導部は、劇場の全歴史でまさに古典バレエを演じることがこのバレエ団の誇れる特徴であったが、まさに今それがこの劇場の舞台に非常に不足しているとの意見を持っている。
しかし、新しい芸術主任の前に課された称賛に値する目的は、いずれにせよ、この就任によって当惑を打ち消す程にはなっていない。
Who is who(ラトマンスキーとブルラカの履歴)
新しい芸術主任の創造的生活の大部分は、ヴャチェスラフ・ゴルデエフの指導の下でモスクワ国営州立劇場「ルースキー・バリェット(ロシアのバレエ)」で経過した。そこに新しいダンサーは舞踏専門学校卒業後にやって来て、直ぐに劇場の主導的ソリスト(ソロダンサー)になった。ここで、このようなレヴェルの劇場には、何らかの理由でもっと有名な競争力のある演劇集団に入ることができなかった人達がやって来ることを指摘して置く必要がある。それでも、ここでは若い芸術家にとってそれなりの大きなプラス材料が存在する。それは、競争はここではそれほど厳しくない。そしてボリショイクラスの劇場に入るよりも遥かに速く成功が経験の少ないダンサーに待っている。逆にボリショイクラスの劇場は、多くの有名な芸術家の告白によれば、高い地位を獲得し、演劇で優秀なグループに入るためには巨大な力だけでなく、外交述、「良い役」を獲得する能力、そしてダンスのプロとは直接には関係のないその他の多くの能力が要求される。
新しい芸術指導者ユーリー・ブルラカのレパートリー(つまり、彼が自分の芸術活動でバレエダンサーであった全履歴)には、重要履歴としてソロダンサーの履歴があるが、決して世界的レヴェルのダンサーに比べて内容は同等どころかどころか半分にも達していない。さらに、まさにこのバレエグループは上演されたのは州立劇場「ルースキー・バリェット」の舞台であった。ボリショイ劇場ではブルラカは一度も上演したことがない。彼のボリショイとの関わりの全歴史は、バレエの独自の「考古学者」の名誉ある役がブルラカに割り当てられたラトマンスキーとの共同上演の「コルサル(海賊)」にまとめられる。古代からのダンスの偉大な知識者である彼は、2003年からモスクワ国立舞踊アカデミーバレエ舞踊及びバレエ研究科の主任教員として、「古典遺産」とバレエ劇場のレパートリーの教鞭を取っており、その所有する深い知識をもとにして「コルサル」を創設した。近代的なバレエ民主主義者ラトマンスキーと古典バレエ歴史家のブルラカ共同創作は直ぐに結果が出た。「コルサル」はヨーロッパで轟き、大衆から「熱烈」に歓迎された。
そうこうするうちに、ラトマンスキーはすでに大分以前からボリショイ劇場での職務に魅力を感じなくなっていた。その生活の主体はバレエと舞台であり、行政や書類作成作業には注がれていなかった才能ある創造的人間は、演劇を上演する目的だけで、以前から世界レヴェルのバレエグループに招待されていた。ボリショイでは、ラトマンスキーの職務の作業は、創造的人間なら激烈に嫌悪した行政的作業に費やされる時間が巨大な量を占めることを意味した。
ラトマンスキーは、全世界に20以上のバレエとコンサート曲の上演を実現した世界で最高級に有名な舞台で主導的ダンスを踊った人物だが、とうとうボリショイ劇場の名前の下では相応しくなくなった。ボリショイのダンサーたち自らが語るには、静かにあるいはひそひそ話しで、そこで、今まですべての人が何新しくなるのではと恐れている。ラトマンスキーはそれでも劇場の生活の厳しいアカデミックな内部様式に幾分ながら影響を与えることができた。しかし、自分の英雄について現在人気ある作家ベルナール・ヴェルベールが内容豊かに書いているが、「彼(この場合ラトマンスキー)はやろうとしたが、出来なかった」のだ。
霧に包まれた将来。
この任命がどのような結果をもたらすか想像することは難しい。ブルラカが、ボリショイのバレエがゆっくり前に進みそしてボリショイが現在陥っている衰退から抜け出せる道筋を発見してくれることを信じたい。この劇場の威厳とエリート・ステータスはすでに昨世紀に失われている。21世紀になった現在は、疑いなくこの劇場に早急に要求されているリブレンディング(rebranding、名前や内容を根本的に変更すること)は今のところ起こっていない。それはまだ先のことになるだろう。歴史は、一見全くロジックに欠ける決定が為されても予期せぬような耳をつんざく成功(仰天するような成功)を導いたことを幾度となく示している。
ボリショイ劇場の歴史の現在のこのページがまさに上記のような事例(成功)になるか、それは時間が示してくれるだろう。