古都ノヴゴロドの魅力
17:4214/02/2007
モスクワ。ロシア・ノーボスチ通信社、タチヤナ・シニッツィナ解説員執筆。
ヴィリーキー・ノヴゴロド(旧名ノヴゴロド)はロシアの古代都市の顔を持っている。年齢は1150歳を迎え、モスクワより約3世紀も古い。ロシアヨーロッパ部の北西部に位置し、「2つの大首都」モスクワ(524km)とサンクト・ペテルブルグ(180km)の間の行程にある。奥地は鬱蒼とした森林地帯が広がる。ノヴゴロド自身も年表によればかつてロシア(ルーシ)の首都であった時期があった。従い、ノヴゴロドは「ガスパヂーン」(ミスター)と呼ばれていた。現在この都市は地方の首都になっており、89のロシアの連邦構成体の1つノヴゴロド州の行政中心地である。

現代の規準から見ると小さいこの都市は(人口約25万人)、歴史の巡り合せで、ロシアの歴史の中で全く特別な地位を占めるようになった。古代民族の雰囲気が豊富な都市の景観は宝庫を彷彿させ、古代の煌めくページを反映し、巨大なダイヤモンドの輝きを放っている。1回でも良いからノヴゴロドを見る機会があった人は、その類希な建築物を見られるだけでなく、この都市に特有の神秘なアウラ(恍惚感)、ロシア人が言うところの、「特別な神の恩恵」、を感じることができる。真の旅行者は、ヴィリーキー・ノブロロドに滞在しなければ、ロシアについて多くを見たり理解したりしたことにはならないとういことを知っている。
人的尺度を使って表現すれば、ヴィリーキー・ノヴゴロドは「貴族の精神と血」を持っていると言える。かつてノヴゴロドの大地は巨大な領地を持ち、バルト海からウラルまで広がっていた。ヴォルガ川岸にもう一つのノヴゴロド、ニージニー・ノヴゴロド(現在は巨大な産業都市になっている)が誕生したのはノヴゴロドの領地がいかに広かったかを物語っている。ところでこのニージニー・ノヴゴロドは、領地の東部地区を形成するためにノヴォゴロドの人たちが打ち込んだ境界標識用の杭と言える。
領地が細分化されていたルーシ(古代ロシア)の封建時代という時代下で小公国あるいは従属公国が多い中、ヴィリーキー・ノヴゴロドは、完璧に独立した強国家で裕福で政治上の自由国家としてその存在は際立って目立っていた。「都市は壁で堅く囲まれ、その中には多くの人がいる」、このような書き込みを古代人は古代ロシア史の年表で後世に残している。自由な都市と言われたのは、ノヴゴロドには特別な政治形態、ノヴゴロド共和国が束縛、圧力を受けずにまったく自然発生的に誕生したからである。1136年から1478年の342年の間、ノヴゴロド共和国は完全な民主主義的な法律で存立した。治世者である公国統治者及び大主教は民衆により選ばれ、職権に就いてからも、民族議会なしでは何らの重要検定事項は採択できなかった。聖ソフィア大聖堂の元にある巨大な鐘は、その鐘音で、私たちが現代の国会内で見るのと非常に良く似た出来事が起こっていた主要広場に民衆を招集した。決定の採択は多数決によってのみ認められた。どの市民も必要と判断した事は発言できる自由があった。ノヴゴロド共和国の法律は当時の時代の先を行っていた。市民の精神的、物質的繁栄のための力も与えた。その名声と威厳が隣国のヨーロッパや近隣の友好国に尊敬されていたヴィリーキー・ノヴゴロドは、14世紀にヨーロッパの70の大商業中心地を統合していたハンザ同盟に招聘された。
ヴィリーキー・ノヴゴロドの隣国との関係は、西部地区との関係も、東部地区、とりわけ、モスクワ公国やウラジミル・スズダリ公国との関係も、緊張しており、時には「流血」を見ることもあった。遡って13世紀には共和国はドイツとスェーデンの封建君主の侵略を受け重大な脅威になっていたが、侵略者たちに反撃し侵略を許さなかった。その当時、ロシアの軍隊を率いたのは、伝説の人、国民的英雄、ロシアの「聖人」になったアレクサンドル・ネフスキー公だった。
ヴィリーキー・ノヴゴロドは、歴史家の評価によれば、ロシアの民主主義の発祥地であった。ロシアの国家は、自分自身の起源を辿れば、君主国家ではなく共和国になるチャンスを持っていたのだ。しかし種々の理由により専制体制国家が台頭し確立してしまった。
ノヴゴロドの「黄金時代」ははっきりと都市の概要に現れている。才能豊かな職人技が、千年経過した今でもその建築様式の完全性で人々を驚嘆させる素晴らしい建築物を創り上げた。このような建築物としては、主に、卵で混合させた溶液で接合された特別の強度を持って建設された教会や修道院などが例として挙げられる。
残念ながら、大部分の価値ある建築物は、襲来してきたヒットラー軍がすべてを灰と化してしまった第二次世界大戦の時に崩壊されてしまった。幸運なことに、若干の記念碑は襲撃を逃れ奇跡的に完全な状態で保管されている。その中で、最も古いのは、地元のクレムリン(要塞)の中に建てられたソフィースキー大聖堂(1045年建設)である。古代ロシアの都市にとって、あらゆる居住の中心であった都市の輪郭や造成を決定づけていたクレムリンは最重要構成物で、それなしには存在できる都市など1つもなかったことを指摘して置く必要がある。ここには行政、宗教、社会の中心機関が集中していた。
ノヴゴロドのクレムリンはヴォルホフ河岸にあり、河岸からの景観は特に美しい。それは自分の重々しいギザギザの歯の壁と厳格で荘厳な塔を持ち上げ、まるで水の渦から立ち上がっているに見える。クレムリンの教会の鐘の音はお伽噺の中の交響曲を彷彿させるようだ。もし、コクイという34mの塔の上に立てば、都市と都市周辺の驚くべき全景が見える。
最も面白い場所は、リュリコヴォ小都市だ。そこから、実質的に都市が始まっている。ここでは、大規模な古代遺跡の発掘調査がすでに何十年に亘り行なわれている。考古学者は、都市の年齢と特定する証拠品、生活の様式を証明する貴重な遺物などの多数の証拠を発見した。古代の商業取引認証用の2000以上の鉛の印判や種々の官庁書類、数千のきちんと保存された白樺の表皮に書かれた古代ロシアの証書、実務文書、聖書の解説書、数千年前の恋の信書そして料理のレシピ、等々。これらはすべて地元の博物館で見ることができる。
都市から近く12世紀に建てられたブロゴヴェシェンスク修道院、そして、都市の全歴史にわたりロシア人が自分の庇護者と思っている16世紀の建造物である至聖生神女(マリア)誕生大聖堂がある。もっと遅い時代のヴィリーキー・ノヴゴロドの名所で最も有名なのは、彫刻家ミハイル・ミケシンの設計で1862年に創られた「ロシア千年記念碑」である。
ところで現代のノヴゴロド人は何で生活しているのだろうか?ソ連の時代にはこの地域は発展の遅れた地域の1つであった。しかし1991年に、民主主義選挙により、ノヴゴロド州知事に若い政治家で経済マネージャーのミハイル・プルサックが選ばれた。州は急速に力をつけ、自分の声明をさらに大きく宣言することができるようなった。この間、いつもノヴゴロド州の投資魅力のレーティングは常に上位にある。プルサコフによると、現在ノヴゴロドには外国資本の入った企業が190活動しており、州経済への投資総額は6億3800万ドルに達する。では実際ノヴゴロド人は何で生計を立てているのだろうか?土壌は黒土地帯というわけでなく貧弱で、有効な鉱物資源もない。しかしその代わりに州の回りには一面に針葉樹や強力な松の大量の森林資源がある。製紙産業、木材加工企業、家具産業もノヴゴロドの繁栄の基礎を築くようになった。
ノヴゴロドを訪れる客や旅行者のために、都市は、近代的クラスのホテルから若者向けの手頃な価格の民宿タイプの寮まで、様々なクラスの宿泊施設を幅広く提案している。どのホテルにも快適な生活に必要な設備、良好な食事サービス、自動車駐車場、近代的な文化サービス(クラブ、ディスコティック、カジノ、ビリヤード)、が整っている。
来訪者でノヴゴロドの土産品に無関心で帰るものはまずいない。土産品で一番典型的なのは、ヴァルダイの鐘(悪を追い払う)、びっくりするような形の白樺の表皮からできたユニークな製品、その中でもとりわけ茶の匂いが保存できる「魔法の」小箱は特に人気がある。また、旅行者の間では、古代ロシアの模様が装飾された見事な陶器製食器、優雅な漆のミニチュア細工、青い霧で夏のノヴゴロドの耕作地を覆われるこの地に伝統的に生える麻からできた独特な製品も旅行者の人気を博している。