マイナス面:
1. 中国やインドのような、(あるいはさらに多くの)モスクワに近い諸国にとって第一のパートナーになる能力がなかったこと。
ロシアの経済的可能性は、ロシアが、このような展開を歓迎してくれる首都でさえ影響度で第一番を占めることを可能にさせてくれなかった。政治な判断で同盟関係を結ぶ時間よりも、他国の市場でいかに主導的な地位を占めることができるかがビジネス能力における大きな力になって来た。このようなリーダーシップのためのロシアには経験も資源もない。ロシアにとって最重要な(ドイツや中国)の国の中でどの1つもロシアは経済パートナーとしてのリストで最初の行に名を連ねていない。精々、十番以内程度である。これは、CIS諸国(例えばカザフスタン)ですら顕著である。結果は、ソ連時代に比べてこれらの国との政治関係の弱化を招いた。
2. ロシアが生活、文化、芸術スタイルの分野で国際的なリーダーになる能力がなかったこと。
この事実は、外交政策だけの不成功ではない。しかしこの時代に、現代のロシアは、自国の軍事力や経済力だけのお陰ではなく海外で少なくない心を勝ち取ったソ連が一定しない成功を伴いながら為し得たことすらできないように感じる。ロシア語の使用範囲は狭くなるし、現代ロシアの文化や芸術の権威は落ちている。これらの分野で、ロシアの外交政策(寧ろ、それに関連する分野)は、国外での自分の文化の動きで多くの技術を働かせている世界の多くの国から大きく遅れている。
3. 外国でのロシアの国外飛散の仕事の有効な政策を作成する能力が身に付かなかったこと。この分野の新しい構想の発生はまだ1980年代に遡る。しかし、現在まで、ロシア国外にいる百万人のロシア人はとうとう、中国やインドの飛散労働者がこれらの国の発展に寄与した役割に比べるとロシアの海外悲惨労働者が経済その他に果たした役割は少ないままに終わっている。
4. グルジアやウクライナのような国でロシアの影響力が弱くなったこと。モスクワは、隣接諸国に居住するロシア人の資源も含めて巨大と思われた隣国の善良な資源を動員する能力が身に付かなかった。いや実際は彼らとの同盟関係を悪化させた。これは、ロシア自身の計算違いであり、決してロシアの敵国の行動が成功したというだけではない。自分は正しいのだ、自分の力は強いのだという「アメリカの病気」にロシアは冒されてしまった。ロシアがこの病気に冒された結果引き起こした最も顕著な不成功の例は、モスクワからグルジアを、しかも自国政府の政策に不満を持っていたグルジア人ですら、ただ単に遠ざけるだけのグルジアへの制裁を科してしまったのだ。
5. 軍事技術協力での失敗(最近の顕著な例はアルジェリアとインドだ)。国際協力のこの分野は、1990年代のロシアの外交政策の殆ど半分を占めていた。貿易売上げが他の国から遠く遅れていた諸国(中国その他)との関係は、軍事協力により維持されていた。ここでもまさに、資源ではなく技術、とりわけ軍事技術の輸出、により構築されるロシアの新しい対外貿易モデルの将来性が見出せると思われた。2000年の最初に、ロシアの軍事輸出額は伸びた。国際市場での他の兵器輸出の競争が激化した。しかし、ロシア兵器の注文者が商品の引取りを拒否したり納期を守らないクレームが唯一の原因は決して競争が激しくなったためではない。ロシア経済のこの分野で恒常的に行われている改革が今のところロシア兵器の人気の改善という姿で希望する結果をもたらしていないことにある。
プラス面。
1. 世界の主導国家の1つとしてロシアのステータスが復活したこと。ロシアの経済的復活と安定的成長は国際舞台でロシアの影響度を高めた。ロシアを好きでなろうとなかろうと他国はロシアの影響度を高めるかあるいは、影響度が高くならないように抵抗する。しかし、90年代は、多くの国際危機の解決では、ロシアの言うことを聞かなかったが、いまは全く反対だ。核その他の兵器庫の著しい増大なしにこれを達成したことを指摘したい。すなわち、軍事力に頼らないで影響度を高めた。モスクワの増大する石油ガスが大きな役割を果たした。その「将来のリーダー」への参入(中国やインド、ブラジルと共に)、そして自分でも予期せぬ「大きなユーラシア」が全快したという事実、が影響度を高める役割を果たした。
- 2. ロシア人の自尊心を復活させたこと。
国民の自尊心、これは世界の他の民族の中でその存在を示す重要な要素であり、外交の最重要目的だ。大使から旅行者まで、現在あらゆるロシア人は、外国でも国内でも、大きな、強い、成長する、尊敬される国家の市民であることを感じている。90年代に、ロシアは「スパソ-ハウス」(在モスクワのアメリカ大使館公邸)から管理されていたとすれば、現在は、あらゆるロシア人(あるいは外国人)は、モスクワは、国際的或は自国内の政策に問題でワシントン或は他の首都の意見には同調しないこともできるし、自分の意見を何らの否定的な結果を招かないで主張することができる。現在は、こんな贅沢が許される国は世界でもそう多くはないだろう。
3. ロシア国境に沿っての「オレンジ革命」の波を防御したこと。
選挙メカニズムによる操作で、CIS諸国では反ロシア体制の権力への導きは、CISの崩壊、ロシア自身の経済及び政治危機という悲惨で終わったように感じた。これは起こらなかった。混乱と国内の首都の店舗の破壊を伴ったキルギスタンの不成功の「オレンジ革命」は、逆に、この地域での政治エリートと住民を驚かせて、中央アジアでのロシアの立場を強くした。ウクライナとグルジアでの「オレンジ革命」の強い感化は、これらの国家の国内出来事で輝きを失った。ロシアの外交政策の功績は、ここでは、起こった出来事に極めて平穏に反応したことにある。時折、なによりもまず何もすることがないように思われる。
- 4. 古い統合メカニズム(CIS、CST(集団安全保障機構)など)を維持したこと。
旧ソ連空間でのロシアの政治モデル(1990年代のモデル)が永遠に機能しないことは、ウラジミール・プーチンの大統領第一期の初期からはっきりしていた。問題は、そのモデルを替えることにあった。8年間で、CISの機能やメカニズムの一部は、旧ソ連国家の大部分にとって必要であり、このメカニズムの改革は続けられている。この際、CIS諸国(集団安全保障機構)の一部の軍事同盟を維持することに成功した。政治的にモスクワに近い国家にとって安いエネルギー資源の供給で成り立っている旧ソ連モデルからの退出に成功した。旧ソ連空間、ロシア-カザフスタンの新しい統合の軸が整列されている。旧ソ連諸国だけでなく、中国(上海協力機構)も加盟している中央アジアの新しい国際協力モデルが設立された。旧ソ連空間の外交は、あまり結びつきのない方向に益々分裂している。西側と中央アジアという殆どお互いに結びつきのない方向に分裂し、この方向は政策をより効力を発揮するようになっている。
5. ソ連の伝統的影響国での失われたロシアの立場を復活させたこと。(ヴェトナム、中東、インド、中国、など)、そして、新しいパートナーとの関係の調整(南米諸国など)。
1990年代は、ソ連時代のパートナー関係が崩壊し、その替わりに何も新しいことが起こらず、ロシア外交政策の地球規模の役割が喪失した時期だった。同時に対外貿易は大幅に縮小した。それは、国家統制で貿易をしていたロシアでここ数十年で市場改革が起こり、民間ビジネスが何も経験を持っていなかったからだ。1990年代の初めのロシアの指導部には、経済でも政治でもモスクワが世界のどの地域で、そして、何を獲得するか明確なビジョンがなかったのである。ウラジミール・プーチンの登場で状況は変化した。世界のすべての大陸でロシアの国営及び民間企業はビジネス実務利益に関心を持ち、政治もこれらの利益を追求すべく支援体制を取っているからだ。