ロシアの日が祝日として徐々に国民に浸透。
07:5512/06/2008

アンドレイ・ヴォヴラ、ロシア・ノーボスチ通信社、政治解説員。

 

 

6月12日はロシアの日だ。国はこの日をロシアの主要な国民祝日として祝う。この祝日の年齢はまだ非常に若く、1994年に誕生したばかりだ。最初の名前は非常に仰々しく、「ロシア国家独立(主権)宣言採択日」と名付けられた。仰々しいだけでなく、多くの人に、当惑と苛立ち、あるいは憎悪を呼び起こす名前だった。

 

ソヴィエト連邦の歴史の終焉について論ずるテーマはいつも異常に病的である。しかし、現在までそれはそのように残っている。多くの人にとって、1990年に宣言されたロシアの独立(主権)は、ソ連を崩壊するまでに発展した革命的変革の連鎖の中の最重要の鎖の環だった。何を祝うのか、偉大な国家の終焉か?それとも、この独立により結果的にもたらされた1990年代の経済と社会部門全体の混乱、無法、最も不気味な危機、を祝うのか?果たして我々はそれまでは独立国家ではないところに住んでいたのか?と人々は訊いた。

 

要するに、この祝日を定着させるには困難を伴った。しかし、それは本当の国家祝日としてロシア人の意識の中では徐々に根付いて行っている。そのことは驚くことではない。国家は現在、この言葉のすべての意味において上昇基調にある。祝日が何という名前なのかを知っている市民の数は絶え間なく増えている。例えば。2003年には、3分の1より少し多い程度(38%)の人が名前を知っていたが、最近のアンケート調査では、現在はその名前を知っている人は半数以上の55%に増えている。

 

さらに、最近の4年間では、6月12日をまさに祝日と認める人の割合も2倍(12%から25%)に増えた。尤も、この日を全然祝日ではなく、別荘のシーズンに適合する単なる追加的に制定された休日と考える人の割合は、相変わらず半数以上の58%(2004年には72%もいたが)もいるが、それでも徐々に減少している。

 

1998年にボリス・エリツィン大統領は、6月12日を巡る解釈を最終的に明確にするために、この祝日を「ロシアの日」と呼ぶようにする大統領令を出した。そして、基本的には、新しいロシア連邦形成の日という単なる「技術的な日」以上の意味を持ったわけだが、その時すべてが然るべき場所に収まった。

 

1990年代の激しい政治闘争の時期にこの祝日の意味は意図的に歪曲された。当時、独立宣言はロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の人民代議員会議の絶対多数により採択された。宣言には民主派も、そして共産主義者も賛成を投じた。なぜなら、宣言にはロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国は、新しくなったソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)の構成国になり、ソ連の市民権、ソ連の憲法が維持され、ロシアとソ連との全権の区分けの新しい原理のみを定めると記されていたからだ。つまり、全権を委譲するだけとしか記されていなかった。つまり、独立についての言葉もソ連から退出するという言葉も書類には記載がなかったため、これなら由とするということで、反対者は一握りに過ぎなかった。ロシアの独立について明確に書かれていたら反対票を投じることを決意するのは難しかっただろう。改革を要求した投票者も完全には理解していないこともあり得た。

 

当時は、その構成要素に留まりながら、各共和国が中央で権力の1部を掴み取っていたソ連が変容した姿があった。つまり、歴史の当然の進行方向を止めようとする国家指導部の守旧派が起こした1991年8月クーデターによりすべてが消し去れた姿があった。実を言うと、変容は、当時のソ連の指導部の立場とは違った。主権について会議では最初に発言したのは、共産党の高級特権階級の代表者であったロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の閣僚会議議長のヴラソフと政治局員(ポリト・ビュロー)のヴォロトニコフだった。ここでは、勿論、政治ゲームや政治駆け引きの方が多かったが、それでも「主権」という言葉は使われた。

 

この時までに、主権(独立)宣言はグルジア、リトアニア、エストニア、ラトヴィアですでに採択されていた。ロシアの後、独立宣言はしばらくしてウズベキスタン、モルダヴィア、ウクライナ、ベロルーシでも採択された。保証人であるソ連は大きく揺れるようになった。しかし、当時採択された多くの議会法令の中にたった1つ、独立に関する宣言があったがそれは大衆にはよく見えなかった。従い、記念日に関しては、ロシア人にとっては実質的に現在まで何も変わっていない。自分に自信の持てる強い繁栄する新しいロシアを復興させ作り上げるための長い困難な数ヶ月がまだ控えていた。それ以来「ロシアの日」に代わる記念日は誕生しておらず、得られたのは良い結果だけのようだ。